ある程度の不便

待降節に入り新会堂での歩みも一年を迎えようとしています。この一年を振り返るとやはり新型コロナウィルス感染の拡大と減少の繰り返しを見つめながら、この事態の終息を祈り求める日々でした。

全世界がウィルスに感染するという、まるで映画でも見ているかのようなこの事態において人類が生み出した産業と経済の脆さ危うさを目の当たりにした思いです。それは言い換えるなら豊かさの反動とでも言うべきでしょうか。感染者数の統計を見ると欧米など先進国が多く、国内でも都市部に同じ傾向を確認できます。それは人口密度の比例と言ってしまえばそれまでですが、裏を返せばそこは豊かさの集中地域でありその豊かさは発展途上国や地方と無関係ではありません。経済を回復するためには感染の再拡大に備えねばならず、感染を抑えるには経済活動を制限せねばなりません。そしてそれは常に先進国や都市部の事情に途上国や地方が従属せねばならないという構造に縛られています。

新型コロナウィルスの発生源が何であるかに関わらず、今日の感染拡大が続いている状況を生み出している原因の一端は私たち人間自身の暮らしに大いに関係します。それは豊かさとその集中にあり、言い換えれば利便性や合理性の追求とも言えます。イエスのエルサレム神殿における宮清めは、利便性と合理性の追求により神殿が本来祈りの場であることを見失っていた事への批判でありました。神殿が祈りを軽んじる時、神殿本来の役割を果たさず脆く崩れ去るのです。

便利になること事態は非難できないでしょう。しかし新幹線の車窓からは気づけない野花の色や形が鈍行列車からは見て取れるように、便利さは何かを見落とし不便は気づきを与えてくれます。ある程度の不便は人間の生活に必要なのかもしれません。その不便が今日の脆さと危うさを気づかせ且つそれを是正してくれるならば。

孫 裕久

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