敵を愛しなさい

マタイ5:43-48

「汝殺すなかれ」等、律法の禁止令はそれを行わなければ罪にならない。しかし「隣人を愛せよ」は不履行によって罪となる。そこで隣人とは誰か、どこまでを隣人とするかが関心事となった。即ち、民にとって「愛せよ」という積極的な律法は「どこから先は愛さなくても罪ではないか」という消極的なものになっていた。
このような民にイエスは「敵を愛しなさい」と命じた。これは隣人枠をどこに設定しするかという議論の延長線上にはない。当時の通説は、敵は憎むべきものであった。これを愛せよとは全く逆転の発想に他ならない。打たれても打ち返すなではなく、もう一発打たせてやれとする(5.39)、あれと同じである。ここに律法学者やファリサイ派の人々の義に勝る義の真髄がある。
彼らの義は(見かけ上)律法を満足していればよい。極論するなら律法に反することは善でも認めないし、律法通りであれば悪でも肯定する。これに対しイエスの言わんとする律法の完成(5.17)とは、そこに愛があるかという一点に尽きる。そこでモーセの十戒の実用を暴露し律法に愛が欠落している事を明らかにした。(5.21~)
愛とは自分を愛してくれる人を愛することではない。敵を愛することである。しかし自分を愛してくれる人を愛するように敵を愛することは絶対にできない。敵は憎むべき存在である。だからこそ争いは永遠に終わらない。力ある者が力なき者を支配していく。「憎む」というこの世における最強の力に人間は支配されている。
愛とはこの憎む力に勝る力である。敵を愛しなさいとは、その力で自らを支配する憎しみに勝てと命じているのだ。愛とは愛されている時ではなく、憎しみに支配されている時に発動される力である。主イエスはその力で律法を完成してくださったのである。

孫 裕久

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