もうひとつの道

月例聖書を学会「ヨブ記」の学びが終盤を迎えています。
苦しむヨブを訪問した3人(エリファズ、ビルダド、ツォファル)の友は神の義と因果応報から、ヨブの苦しみを罪の結果と結論づけ悔い改めを勧めます。しかしヨブは、悪人が栄え善人が貧する現実で反論します。
押し問答が繰り返され、膠着状態に陥ったその時(32章)のこと
「私は若く、あなたたちは年をとっておられる。だからわたしは遠慮し、わたしの意見をあえて言わなかった」
実はそこに今一人、沈黙していた若者の存在が明らかにされます。その名はエリフ。彼は他の三人とは異なり因果応報を持ち出しません。しかし神の側に問題があるとするヨブの結論を批判します。ヨブは自分の無実を主張し、故に神の側に問題がありとします。しかしこれも結局は因果応報の域を出ていないのです。エリフはどちらに問題があるかではなく、ヨブに対して神との関係を問うているのだと思います。
私は以前、父を批判することで自己を肯定していました。自分の人格、性格、偏差値、友人関係、一切合切父に責任を擦り付けて自分を正当化していました。父が悪いのか、私が悪いのか。その呪縛から解き放ってくれたのは韓国留学でした。帰国後、私は父と和解すること出来ました。
幼い頃から父の前では正座し、長時間黙してその戒めを拝聴し、答えは「はい」という選択しかありません。留学後もその姿勢は変わりませんでしたが、しかし以前は恐怖ゆえの服従でしたが、和解後は何かが違っていました。
日本に植民地支配される朝鮮半島で生まれ、7歳で日本に渡り、十分な教育を受けることもなく育ち、在日朝鮮人として戦後を生き抜いた父によって私はこの世に生を受けました。不思議と言わざるを得ない感謝の気持が相変わらず正座しながら、黙してその戒めを拝聴し、「はい」と答えていたのです。
突然のエリフの登場によって、虚無に彷徨うヨブと、父を憎むことでしか自己を認めることの出来なかった昔の自分が重なりました。今、ヨブはエリフの言葉によって、どっちが悪いのかではなく、根本である神との関係が問われているのです。

孫 裕久

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