腰で打つ

剣道の高段者の口癖が「腰で打て」であります。「腰で打つ」とはその打つ瞬間の体の感覚を表現しており実際に腰で打つ訳ではありません。腰で打つという感覚は、長年稽古を積んでその感覚を体が認識するもので初心者が頭で理解できるものではないのです。したがって初心者には素振りの基本を論理的に言葉で教え、その教えを何度も繰り返し、長年稽古を積み重ねて「腰で打つ」を体感します。そしてその時、それまで言葉で指導された数々の教えは「腰で打つ」という唯一の感覚に集約されます。それは最早言葉ではないのです。
毎朝、素振りをしながら頭では色々考えているのですが、受肉というのはある意味それに近いものなのかなと思いました。言葉が受肉する。それはマタイ福音書に言わせれば、預言がイエス・キリストによって成就したことです。聖書はあくまでも言葉です。しかしその言葉が本当に伝えたいのは「腰で打つ」ということなのです。剣道でも基本の指導方法は種々あって対立するものもあります。しかし指導方法は異なれ、どれも目指しているのは「腰で打つ」という一点に着地することなのです。
様々な律法と預言がある中で、イエスは行き着くところ、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と教えました。
聖書も説教も、否、言葉というものは、常に目的地の方向を指し示す所までしかできないものなのかも知れません。私たちキリスト者は、聖書の言葉を手がかりに目的地に向かっており(言い換えるなら信仰を養っており)、そこに辿り着いて初めて「腰で打つ」を心で味わうことができるのでしょう。

孫 裕久

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