信頼(3)

信徒が牧師を信頼するのは、その牧師が神を信頼しているからです。この世には頼りたくなるものが沢山あります。しかし牧師はその何れでもなく神を信頼せねばなりません。良い羊飼いとはそういうものです。
しかし私はどうでしょうか?政治家のように信頼を得ようとしても、自分は神を信頼しているのかと問われると答えに詰まってしまいます。
自分に正直に答えるなら、神に信頼する牧師でありたいと願っています。
時時に様々な判断があります。その殆どは自分の知識や経験の範疇で、その域を超えるものではありません。一方、神を信頼する上での判断は勇気が必要です。
主イエスは十字架の道を歩まれました。そして復活の希望を示してくださいました。これが神を信頼する唯一の根拠です。神を信頼する時、そこに勇気が求められるのは、その道が十字架に向かっているからです。しかし同時にその先にこそ復活の希望があると信じているのです。この十字架と復活を見つめながら、そこに一歩でも近づいて行けるものでありたいと願っており、時には聖霊に満たされ恐れに打ち勝ち、しかし時には恐れに負かされ尻込みしてしまうのです。
社会では信頼を得ようと努めています。しかし教会は、信徒は牧師を信頼し、牧師は神を信頼することを前提に成り立っています。信頼を得ることが目的ではなく、信頼から始まっています。そのことを肝に銘じて新しい年を歩んで参りたいと思います。

孫 裕久

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