必要性

戸手町内会の新年会で話題になったのは若者の町内会離れについてでした。私の座ったテーブルには77歳が一人とそれ以外の3名は80代でした。若者は町内会に必要性を認めない傾向にあります。その必要性というものを掘り下げると、そこに「出会い」というものがあるようです。即ち出会いは職場や学校そして町内会等、空間を共有する場ではなくなってきています。町内会でいえば、むしろご近所とは距離を置く傾向にあります。
誰もが出会いを大切にし、それを求めてはいますが、最早それは空間の距離に支配されないインターネットが主流です。教会もやがてはそうなっていくのでしょうか。オンライン礼拝がそのさきがけとなるのでしょうか。
確かに聖書を学び、牧師の説教を聞くことに中心を据えるなら教会は会堂を必要としなくなるでしょう。しかし主イエスの宣教の本質からいえば、それはもはや教会ではありません。教会が教会として存在するのは「この最後の者」(マタイ20:14 ぶどう園の労働者のたとえ話)との接点にあると私は思います。教会は最後の者の居場所であり、故に最後の者との出会いの場であります。そしてその出会いと交わりの中に、真実があると信じているのです。この世が神の国でない限りにおいて最後の者は存在し続けるのです。ここに教会の照準を据える限りにおいて、教会はこの世に必要なのです。
町内会は必要性で淘汰される部分もありますが、例えば防災の観点から見れば町内には災害弱者が住んでおり、それはやはり町内の課題です。
川崎戸手教会の歴史に鑑みるならば、町内の課題と宣教が連動して教会は神に用いられて来ました。これは川崎戸手教会が大切にしてものであり、将来に継承して行くべきものです。

孫 裕久

*    前週の一週一言(訂正)
孫影愛姉の友人がお亡くなりになられたと記しましたが、現在、脳死状態ではありますが人工呼吸器によって存命中です。お詫びし訂正いたします。

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