永遠の命(クリスマス・イブ礼拝説教より)

「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
(ヨハネ福音書6:40)

聖書やキリスト教に関心を寄せる人でも、永遠の命と復活に躓きます。しかし永遠の命とは不老不死ではなく、復活は墓場より死者が蘇生することではありません。
「終わりの日に復活させる」とは、いつの日か真実が明らかになるということです。人はみな何かをやり残して死んでいきます。誤解されたまま、理解されないまま、和解できないまま、そして冤罪のまま。復活とは、決してそれらをそのまま放置せず、必ず明らかになる日が来るという神の約束です。故に復活を信じるものは人生の残された時間を逆算して物事を決めません。即ちあきらめを知りません。
1963年、狭山市で女子高校生(当時16歳)が殺害された「狭山事件」で、石川一雄さんは強盗殺人罪などに問われて無期懲役が確定し、現在は仮釈放中で再審請求をしています。石川さんの声明に次の一文があります。「私には『あきらめ』という言葉はありません。仮出獄して30年近く社会生活を送ってきたとはいえ、61年前に私に着せられた冤罪を晴らすまで全力で闘います。」
またM.L.キング牧師は暗殺される直前の集会で次のような言葉を残しています。
「私は、お金は残していかない。しかし悔いのない人生だけは残していきたいのだ。道の途中で私の言葉や歌が誰かを助け、元気づけ、正しき道に導いたとき、はじめて私の生涯に意義があったと言えるのだ」
永遠の命とは、復活を信じて生きる命です。もしかしたら石川一雄さんは再審無罪を見ることなくこの世を去るかも知れません。しかし復活を信じる者らの闘いは終わりません。何故なら永遠の命を生きているからです。
この世に遣わされた救い主は、私たちに復活を約束し、永遠の命を与えて下さいました。復活を信じ、永遠の命を生きてまいりましょう。その永遠の命が復活を実現させるのです。

孫 裕久

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