何を見ているのか

先週、連れ合いのすすめもあって映画『国宝』を観た。刺激を受ける場面もあったが、正直なところ何が言いたいのかつかみきれないまま終わった。更にストーリー自体も、どこかで見聞きしたような要素も多かった。しかし、途中何度も描かれる「雪と暗闇」の映像、雪の向こう側に広がる深い闇、そこには、作者の隠されたメッセージが込められているように思えた。
映画の冒頭とラスト、喜久雄の表情と、ゆっくり舞い落ちる雪が重ねて映し出される。物語の要所では、カメラ方向を変えて、喜久雄が見つめる雪とその先の闇が繰り返し登場する。
冒頭、雪が降るなか、幼い喜久雄は半次郎に抱えられながら、父が殺害される光景を物陰に隠れ、ただ見ている他なかった。あまりにも決定的な体験だが、喜久雄はその出来事を物語の中で一度も語らない。ただ、彼の記憶の中では舞い落ちる雪の向こう側の暗闇として広がっている。あの闇は喜久雄にとって闇そのものなのか、それとも父が殺される場面を記憶から消そうとしているのか。
「どこ見てたんやろ?」終盤、喜久雄がそうつぶやく。その言葉は、この物語全体を貫く問いのように私には響いた。原作は読んでいないが、映画だけで受け取るなら、この作品が投げかけるのは「答え」ではなく、「問い」なのだと思う。
「私は何を見ているのか。何を見て生きてきたのか。」私は在日のクリスチャンホームに生まれた。兄弟たちの生き方を見れば、他の道も確かにありえた。しかし、今、私が「孫裕久」という名で牧師として生きていることは私が選んだ道ではあるが、それでも自分の出自と切り離すことはできない。
喜久雄は極道の家に、俊介は歌舞伎の家に生まれた。人は誰も、自分の出自を選ぶことはできない。そして、誰もがそれを背負い、またそれから逃れていこうとする。しかし、その先で何を見つめて生きるのか、それは一人ひとりに与えられた自由だ。しかし、その自由もまた、完全に出自から切り離されることはない。
私は何を見ているのか?喜久雄が初めと最後に見た雪景色と自分を重ね合わせた作品でした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です