理想を唱えるわけでも、現実を無視するわけでもない。しかし人間は、豊かさを追求し過ぎると欲に塗れて誇りを失う。
それにしても、憤りを禁じ得ない一週間であった。盗人でも、ねずみ小僧や雲霧仁左衛門などには、越えてはならない一線というものがあった。盗人という言葉すら相応しくない、彼の所業は、押し入り強盗である。厳密に罪状を並べるなら、住居侵入強盗殺人罪である。そして彼女は、その是非に沈黙する。同盟とは、互いの犯罪を黙認する間柄という意味なのか。
彼らは自らを「国の経営者」と呼ぶ。確かに国益を追求する責任は負っている。しかし、越えてはならない一線というものがあるのではないか。豊かさの追求に、他人のものを力ずくで略奪するという選択肢はない。
今、日本は好景気の兆しを見せている。国民は期待を寄せている。それ自体は悪いことではない。人として自然なことであろう。しかしその一方で、「誇り」というものを犠牲にしてはいないだろうか。真に「愛国心」というものがあるならば、この国の一員であることに誇りを持ちたい。法治国家を標榜しながら、経営的判断としてその押し入り強盗を黙認するリーダーによって得た豊かさ、それに満足してしまったら、誇りなど持てはしない。
誇りとは何か。今論じる誇りとは、一言で言えば、その国の一員であることを「恥じない」ということに尽きる。やや複雑にいえば、
「誇り」とは、利益のために越えてはならない一線を越えない、と自らに課すことで保たれる自己尊重であり、
「誇り」とは、法と正義の手続きを、都合が悪いときほど手放さないという公共的な自制であり、
「誇り」とは、この国の一員であることを、道義的に肯定できるだけの根拠を守り抜く意志ではないだろうか。
豊かにはなりたい。しかし誇りは手放したくない。この矛盾と緊張の中で、人間という生物は生きているのだ。
豊かさと
誇りのはざま 立ち尽くし
越えぬと決めて
恥じぬ道行く
孫 裕久