この街があるから

Tさんが土手に住むようになったのは1959年。
当時はレンガ工場跡を中央に5、6戸づつの固まりが点在し、
計20戸ほどの集落で、電気、水道はもとより電話や衛生車の
巡回など一切無く、照明はカーバイト、ゴミや汚物は
川に流すという生活様式だったということです。
一時しのぎの腰掛けとして土手に身を置いた筈だったのに、
振り返れば40年以上の歳月が流れていました。
その歩みは「不法占拠」と呼ばれるこの小さな街に、
人間としてその生活権、生存権を獲得していく
闘争の歴史であったとご自身は振り返られます。
また、一昔前にはあからさまに「土手下朝鮮」などという差別的な
声を聞くなかで、Tさんは人権に対する深い意識を養われました。
「私はこの土手に住むようになってたくさんの朝鮮の人々と
出会いを与えられた。しかしそこには日本人とか朝鮮人とかという
垣根はなく、ひとりの人間として関係を育み共に助け合ってこれた。」
これは、それぞれ似たような歴史や事情を引き下げて同じ土手に
住むようになった者として、また差別や偏見を共に担う者としての
経験が受肉した言葉でありましょう。更にTさんは在日外国人に
地方参政権を「与える与えない」という議論は、そもそも日本が
それを奪ったものであるから「回復する」という表現が
本当であるとも言われました。
このようなお話をお伺いする中で、今のTさんの人格は明らかに
この土手で形成されたのだと痛感しました。
確かに街というのは人がつくっていくものかもしれません。
しかし、その街が実は人を育て人格を形成していくのだと感じます。
土手は街区と比べ確かに住環境的には遅れをとっています。
しかし、現代の深刻な課題である多文化共生をこの土手は
既に実現しており、その意味では時代を先取ったあるべき街の姿が
この土手にあるように思います。
Tさんは今年で65歳。
やがてこの小さな街はなくなってしまうであろう将来を偲び
街の形成史「この街があるから」を書き下ろされました。
力を蓄えて、直ぐにでも土手を出て行こうと思っていた筈なのに…。
何がTさんを40数年間この土手に引き止めたのでしょうか。
それはご自身が書かれた形成史のタイトルが
答えなのかも知れません。
辛いことも悲しいことも、自らの夢や希望も「この街があるから」という
一言の故に懐(フトコロ)に納め土手とそこに住む人々と
共に歩んできたのがこの40年であった思います。
そしてこれからも常に「この街があるから」の一言がTさんの歩みを
方向づけて行くのでしょう。
十字架にかかったナザレ人イエス。自らの命を犠牲にしてまで
護ろうとしたもの。Tさんの「この街があるから…」に代わるイエスの
こだわりは何であったのか。
受難節のこの時、十字架への途上を行くイエスの心中を静かに
考えて見たいと思います。

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