30周年史のために(1) 伝道者になるまで 関田寛雄

はじめに

孫裕久牧師の要請により、表題のような文章を「一週一言」に連載するハメになった。「一週一言」の性格上、楽しんで読んで
頂けるものでなければならない。これは難しい事である。
私としては私自身の「個人史的物語」として書く他はないのであるが、読者に忍耐を持って読んで頂ける事を
願うのみである。顧みれば今年、2004年は私が伝道者になって(つまり補教師准允を頂いてから)丁度50年になる。この事の回顧を含むことを許して頂けるならば幸いである。

1.伝道者になるまで

第二次大戦の教会と牧師の生活を、「牧師の子」として体験して来た私は「牧師にだけはなりたくない」と心底、思い続けていた。従って戦後、1948年、横浜YMCAにたまたま父の友人の紹介で就職した時も、牧師になる事を考えた事は全くなかった。
しかし数年後、私が責任を負っていた「少年部」のあるメンバーが、刑事事件を起した。それは私自身の実在を揺さぶる事件であり、その子どもたち(16歳)を拘置所に訪問する度に、この子どもたちへの責任をどう担ったらいいのかを自問せざるを得なくなってきた。
当時私は青山学院大学キリスト教学科の二年生であり、YMCAの責任者から将来YMCA主事になることを前提に、よい条件のもとに通学を許されていた職員であった。しかし事件が詳細に諸新聞に報道され、その責任の一半を負う私の氏名が職場の名と共に公になった以上、私としてはこれ以上YMCAに職を続ける事は出来なかった。
愛してやまない「少年部」の子どもたちやボランティア・リーダーたちに別れを告げ、職を辞した私は、青山学院高等部の宿直係兼用務員として再出発する他なかった。
やはり拘置所から少年鑑別所に移された子どもたちを訪ねる中で、私は徐々に、嫌で嫌でならなかった「牧師」になる道を促される事になったのである。従って私にとって「召命」とは決して喜びに溢れるものなどではなく、正に「強いられた恩寵」(内村鑑三)でしかなかった。
「これしかないのかなあ」というのが私の率直な思いであった。
宿直という仕事は夜、遊びには行けない立場である。やる事がないので仕方なく学生としては「勉強でもするか」という事で、
改めてレポートなどに真面目に取り組む事になった。
青山学院というキャンパスの中で生活するという身分となり、ゴム草履で教室に出るという生活も捨てたものではなかった。
仲間の用務員のおじさん、おばさんたちとの交わりも楽しかった。
正月の休みには皆と一緒に初めて浅草の寄席に連れて行ってもらい、不思議な感動も体験した。
やがて卒業も間近というある日、文学部長気賀重躬先生に呼ばれた。
青山学院教会伝道師への招聘の話であった。


30周年史のために(2)へ続く

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