30年史のために(12) 開拓伝道基盤としての「戦責告白」[1] 関田寛雄
(4) 言葉との出会い 敗戦を迎えた時、父は栄養失調で倒れ、片肺はほとんど機能せず、病床に臥していた。父の教会には友人牧師が交代で説教に来ていたが、私は礼拝出席を拒否していた。 戦争中の信徒の言動を見てきた「牧師の息子…
続きを読む →(4) 言葉との出会い 敗戦を迎えた時、父は栄養失調で倒れ、片肺はほとんど機能せず、病床に臥していた。父の教会には友人牧師が交代で説教に来ていたが、私は礼拝出席を拒否していた。 戦争中の信徒の言動を見てきた「牧師の息子…
続きを読む →(3)敗戦後の模索 8月15日、敗戦。「軍国少年」は一挙に虚脱に陥った。 何も手につかない。学校へ復帰したものの当分は西宮市の焼跡整理である。 何体もの焼死体を掘り出した。 その頃から「真相はこうだ」というラジオ番組が始…
続きを読む →桜本教会での大韓川崎教会との交わりは私にとって第二次大戦中の日本基督教団の罪責とその責任の自覚へと深く導かれた経験であった。 しかし実はそれは「教会の悔改め」であるのみならず、私自身の「悔い改め」と深く結びついたものであ…
続きを読む →桜本から戸手に移り住んで気付いたことは、「土手下」と言われる戸手四丁目河川敷に多数の在日コリアンの人が集中して住んでいることであった。桜本での在日コリアンとの交わりは私の桜本伝道にとってはとても大きな要素であったし、そこ…
続きを読む →1965年頃のある冬の日、妻の政枝が所用で桜本伝道所の近くに出掛けた時、3才位の女児を連れ、背中に生後一年未満の赤ん坊を背負った若い母親が道端に佇ずんでいるのを見かけた。 小一時間程しての帰路、まだその母子が寒風の吹きつ…
続きを読む →長男の喘息を癒すため少し環境の良い所に移りたいという希望を持った時、最も力強く相談に乗ってくれたのは繆とよ姉であった。 「顔の広い」とよ姉は親しい大工さんを紹介して下さり、二人で現地を見に来た。経済的にもあまり余裕のない…
続きを読む →とよ姉はどのような経験でキリスト教に導かれたのか、これもとよ姉から聞いた断片的な物語から辿って見よう。 戦後の復興期まではこの中華料理店の経営も仲々難しかったようである。 川崎区の宮前小学校の裏門近くの『国興楼』という名…
続きを読む →関田寛雄 川崎桜本での25年 桜本での教会形成については、ここで詳述するわけには行かないが、最小限の事を述べておきたい。桜本教会と青山学院大学との「二足のわらじ」を履き続ける事は、やはり難しかった。恩師の浅野先生との相談…
続きを読む →川崎桜本へ 関田寛雄 青山学院教会を辞任した私は、大学院に入学し青山学院高等部の聖書科教師の職を紹介され(この時も気賀重躬先生のお世話を蒙った)、これをアルバイトとして再出発した。 「教会らしい教会へ行きたい」という願…
続きを読む →初任地の教会にて 関田寛雄 青山学院教会という教会は青山学院というメソヂスト・ミッションの作った学校の歴史と共にある有名な教会であり、その教会の牧師は青山学院全体のキリスト教教育の責任者でもあった。 それ故この教会は歴…
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