30年史のために(8) こひつじ保育園 関田寛雄

1965年頃のある冬の日、妻の政枝が所用で桜本伝道所の近くに出掛けた時、3才位の女児を連れ、背中に生後一年未満の赤ん坊を背負った若い母親が道端に佇ずんでいるのを見かけた。

小一時間程しての帰路、まだその母子が寒風の吹きつける同じ所に立っていたので、「こんなに寒いのにお家にお入りにならないの」と尋ねると、「今、主人が会社の三交替明けで寝ていますので・・・」との答えであった。

翌日その家を訪ねると四畳半一間に親子四人が住んでいて、夫の夜勤明けには眠ってもらうために子供と一緒に外に五、六時間は出ていなければならないというのである。

妻は私に相談した。「たとえ九坪の礼拝堂でも昼間は使わないし、こんな状況の子どもを預かれないかしら」と。私は直ぐに賛成したが、一応伝道所の役員会の了解を得ようという事で、次の日曜日に役員会に図った所、無認可の保育園で色々トラブルがあった場合、伝道所としては、責任を負いかねるので、関田夫人の個人の仕事としてやるのなら、いいだろうという話になった。
妻としては伝道所の働きとして受けとめてほしかったのだが、当時の桜本伝道所の意識はそういうものであった。
伝道所の周辺の労働者の苦しい生活状況に対する開かれた姿勢は見られなかった。これは妻にかなりの失望を与えたが、それだけ逆に彼女はこの企てに力をそそぐ事になった。あの母子にこの話をすると涙を流さんばかり喜んで、「そんな事をして頂けるんですか」と叫ぶように答えたと言う。

そしてそれから1週間の内にその長屋に住む労働者たちの家族から「私たちもお願いします」と続々つめかけ、何と23人の子どもが集まってしまった。そしてその中には知恵おくれや自閉症の子どももいた。
明治学院大学の社会福祉学科に相談して急遽ボランティアをお願いするなどして、始まってしまったのが「こひつじ保育園」である。

そして私たちが戸手に移ることになった時、この働きは戸手でも続けることになったのである。

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