30年史のために(7) 戸手三丁目八番十二号 関田寛雄

長男の喘息を癒すため少し環境の良い所に移りたいという希望を持った時、最も力強く相談に乗ってくれたのは繆とよ姉であった。
「顔の広い」とよ姉は親しい大工さんを紹介して下さり、二人で現地を見に来た。経済的にもあまり余裕のない私たちは売り出し中の一戸分を購入する予定であったが、とよ姉は主張した、「先生、私が援助するから並んでいるもう一戸分も併せて買いなさい。きっと何か役に立つ事があるから」と。人生の先輩でもあり商売上のベテランから強く言われると、私としては返す言葉もなく、
とよ姉の言葉に従った。そしてその言葉の通り、後日この一戸分の空き地にバラックの「こひつじ保育園」を設けることになったのであった。

その帰路、とよ姉が言った言葉が今、尚私の耳にはっきり残っている、「先生、この土地に十字架が立つといいですね」と。
よく「世事に長ける」人と呼ばれる人が居るが、正にとよ姉はそういう人であった。
「世事」に明るい人が信仰によって働き始めると実にすばらしい事が起されるのである。とかくクリスチャンというのは人が好いが、余り「世間」の事に明るくも強くもない人が多いと言われるが、これはとんでもない誤解であろう。
むしろ「世間」のどさくさの中でこそ信仰はその力を発揮するのではないか。
主イエスの言葉に「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。(中略)だから不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」(ルカ16:8-11)というのがある。
この「賢さ」が大切なのであるが、とよ姉はその点において、この「賢さ」そのものを身に付けていた人ではなかろうか。
私のような「愚かさ」の中でウロウロしている者は、どんなにかとよ姉の予想、判断、指示に感嘆させられた事か。とよ姉が組んでくれたローンを、妻が銀行に納入する姿を陰でこっそり見守ってくれていたのもとよ姉であり、私たちは後日そのことを知らされ、その配慮の深さと細やかさに驚き入ったことであった。

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