30年史のために(10) 開拓伝道基盤としての「戦責告白」[1] 関田寛雄

桜本教会での大韓川崎教会との交わりは私にとって第二次大戦中の日本基督教団の罪責とその責任の自覚へと深く導かれた経験であった。
しかし実はそれは「教会の悔改め」であるのみならず、私自身の「悔い改め」と深く結びついたものであった。
その経緯について『平和を実現するキリスト者ネット・ニュースレター』第47号に寄稿した私の文章の一部を少しく引用させて頂きたい。それは日本基督教団において伝道する者としてどうしても告白しなければならない事と信ずるからである。

(1)第二次大戦と私

牧師の子として1928年生まれの私は幼いながらも『15年戦争』の過程を鮮明に記憶している。
『二・二六事件』の号外、高橋是清蔵相暗殺の新聞記事などもこの目で見てきた。中でも私が国家というものの暴力性を身に染みて経験したのは小学校5年生の時である。
ある日、通学のときにいつも通る神社に5、6人の同年輩の少年たちがたむろしていたが、私を取り囲んだ。『お前のおやじはキリスト教の牧師やろ。キリスト教の奴は皆、アメリカのスパイなんや。お前、キリスト教やめろ』というや否や暴力を加えて来た。その中にはその神社の宮司の息子も加わっていた。血と泥にまみれた私は涙ながらに帰宅したが、この出来事は『牧師の子』として生まれた私の『自己同一性』の危機を示すものとなった。『この国でキリスト教徒であることは危険なことなのだ』と悟った私は、わが家を呪わずにはいられなかった。

(2)『軍国少年』への道

やがて中学(関西学院中学部)に入ったが、初めて軍事教練なるものを経験した。
その中で考えた事は、『ひと一倍 ” 軍国少年 ” になろうということであった。普通の日本人よりも、うんと厳しい” 軍国少年 ” になることで、キリスト教徒という『負』の条件をカバーしようとしたのである。
私のそのような態度は軍事教練の教官の評価する所となり、『陸軍士官学校に進学したらどうか』との提言を受けるまでになった。
やがて学徒勤労動員ということで、大阪の陸軍衛生材料廠で薬品の梱包作業などで働いていたが、そこでも班長の立場にあって同級生を督励していたのである。
B29の焼夷弾攻撃やP51の機銃射撃をくぐり抜けながらも、神風特攻隊の先輩の『後に続くを信ず』との遺言にますます奮い立った。
8月7日の朝の発送命令は、薬品倉庫からあらゆる火傷の薬を運び出し、《広》という暗号で貨車に何台も送り出した記憶がある。
広島での原爆被災への対応であった。

(続く)

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