30周年史のために(4) 川崎桜本での25年 関田寛雄

関田寛雄
川崎桜本での25年

桜本での教会形成については、ここで詳述するわけには行かないが、最小限の事を述べておきたい。桜本教会と青山学院大学との「二足のわらじ」を履き続ける事は、やはり難しかった。恩師の浅野先生との相談を経て、教会員の同意も得て、担任教師を迎えることになった。この時李仁夏牧師から紹介されたのが、沢正彦牧師である。

東京神学大学卒業後、志を立てて韓国・延世大学に留学した後、戦争責任問題を基本的な視野に入れて、1970年春、沢牧師は桜本教会に赴任した。赴任直前、既に来日していた、延世大学時代に出合った金纓(キム・ヨン)姉と、東京・目白町教会で結婚式を挙げられた。その後御両人は三年間、桜本教会会堂二階の二間に住み込んで生活し、やがて沢智恵さんが生まれた。
(この辺りの経過は金纓著「チマ・チョゴリの日本人」に詳しい。)
あのヨチヨチ歩きの赤ちゃんが、今や日本や韓国を飛び廻る、シンガー・ソングライターになると誰が予想したであろうか。

三年後、沢牧師夫妻は韓国神学大学の招きでソウルに渡り、当時の韓国民主化闘争と歩みを共にされたのである。その後を嗣いでくれたのが藤原繁子現桜本教会牧師である。李仁夏牧師と親しい交わりにあった、上大岡教会、角田三郎牧師から同教会副牧師であった藤原牧師が紹介されたのである。藤原牧師はお茶の水女子大を出た後、導かれて日本聖書神学校に入り、高校の数学の教師をアルバイトにしながら卒業し、幾つかの教会で伝道師、副牧師を勤めたのだが、主任としての任地を求めて居られた。桜本教会に就任された時(1973年)、私は担任、藤原牧師が主任という事で三年間、一緒に牧会に仕えて来た。

その頃、青山学院大学は大学紛争の傷跡がなお重く残っており、学院理事長・院長と神学科との関係は最悪の状態となっていた。理事長・院長は極端な共産主義嫌いで有名であり、良心的な大学改革のための内部批判をする者を「共産主義者」呼ばわりし、挙句の果てに「勝共連合」(統一原理系の運動)に専ら肩入れするという有様であった。当時の神学科の教師たちを、「革命神学、暴力神学、雑神学」を営むものだと言い、教員排除のために神学科を廃止するという挙に出た。十数名もいた神学科教員は次々と青山を去り、最後には四名となり、1975年度で在学生は居なくなったのである。76年3月最後の学生12名と別れを告げた時、私は初心にもどり、もう一度開拓伝道に出る事を決意した。実は70年春、沢牧師夫妻を迎えるのと入れ替わりに、私たち家族はある方の紹介で、幸区戸手に家を設け、そちらに引越ししていた。妻の政枝は1963年秋、私と結婚後、間もなく地域の親たちのニーズに応えて「こひつじ保育園」を営んだが、私が桜本教会を退任するまで戸手から桜本に通っていたのである。引越しの今一つの動機は、長男嗣男の喘息発病の事があった。医者から転地を強くすすめられたのである。桜本の大気汚染はほんとうにひどかった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です