自分で考えなさい

マルコ12:14−17

イエスは言われた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

(マルコ12:17)

「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。(私たちは)納めるべきでしょうか。納めてはならないでしょうか。」(12:14)

この問いはイエスを陥れるものであって質問者が教えを請う為のものではない。故にイエスはまともに答える必要はないのであるが、冒頭のイエスの答えは質問の内容にではなく、その質に対して誠実に答えていると言える。

ユダヤを統治するローマへの納税はユダヤ人の信仰に関わる問題であった。ファリサイ派は日常で律法を生きることに重きを置いた。律法が想定していない課題については律法学者などの律法解釈を求めその答えを日常生活で実践したのである。

冒頭のイエスの答えにはそんなファリサイ派の態度への批判が含まれているように思われる。即ち模範解答を求める態度である。

確かに「キリスト教問答」に教育現場における日の丸掲揚・君が代斉唱への優しい模範解答が示されていればクリスチャン教員はどれほど楽であるか。実際の所、ファリサイ派の人々はローマへの納税が律法違反に当たらない優しい解釈を求めていたのかもしれない。彼らは律法に適っているか?の答えと、私たちは納めるべきか?の答えが等しくならない矛盾を抱えて苦しんでいたのであろう。そんな彼らに、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えてあげたのだ。

前の答えはローマが鋳造した鋳物なのだからローマに「納税しろ」ではなく返せと、いわば助け舟を出してあげている。しかし中心は後の答えにある。では何を神にお返しすべきか?模範解答に依拠した義は自己正当化が目的であってそれは神に対する偽りの義である。大切なのは皇帝ではなく神にお返しすることである。では何をお返しするのか、お返しするとはどういうことか?それは皇帝への納税に模範解答を与えるようにはいかない。むしろ模範解答があってはならない。そこは自分で考えなさいという所でしょう。

教会は模範解答を知りそれを教える所ではない。共に悩み共に考え、むしろ共に失敗し共に成長する。そういう所ではないだろうか。

孫 裕久

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