主の平和

アメリカ軍普天間基地の移設先とされる名護市辺野古沖の埋め立て承認をめぐり、国が沖縄県を訴えた裁判で、司法は「普天間基地の騒音被害を取り除くには、埋め立てを行い移設するしかなく、移設により県全体の基地負担が軽減される」とする国の考えを追認し、翁長知事による承認取り消しは違法だとする判決を言い渡しました。これは結論ありきの判決理由であり、三権分立の根幹を揺るがすものであります。

組織も個人も厳密な意味で対等な関係はなく、そこには力の差が必ず存在します。そして弱者が強者訴える事案について強者は無自覚に結論ありきの(その結論を補強する)理由を総動員してしまうケースが少なくありません。そしてその場合強者とは全体であり秩序であり平和であります。しかしその全体であり秩序であり平和とは誰のものか?そこが問われるのです。即ち、全体と秩序と平和の故に弱者は、少数者は、沖縄はその犠牲となるのです。

イエス・キリストの神はいと小さき者の神であります。故にイエス・キリストに従う営みはその全体とその秩序とその平和を乱すのです。我々が求めるものは、主の平和「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、み心に適う人にあれ(ルカ2.14)」であります。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5.9)」から私たちは貴い誠実な人間像をイメージしますが、強者から見ればそれは世を乱す極悪人です。そしてイエスはその名の通り十字架で処刑されました。しかいそれは過去のあの一回限りのことではなく、今日もイエスは十字架に架けられているのです。これを見過ごしてはなりません。私たちは沖縄から遠く離れた川崎の地におりますが、この地から出来る一歩を踏み出しましょう。主の平和の故に、神の子とならんために。

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