「キリスト者の作法」 — エレミヤ書50章より —

 

記録によればエレミヤ書の学びは2012/2/16から始まりました。月に一度の学びではありますが、先週50章を終え、残すところ後2章となり5年の歳月を経てその学びを終えようとしています。

エレミヤ書50章は南ユダ王国(エルサレム)を滅ぼしたバビロンへの厳しい審判予言です。これは1章から読みすすめてきた方々にとっては不思議に思える預言です。エレミヤは神がバビロンを用いてユダに審判を下すと予言しました。所がその当人が次はユダを滅ぼしたという理由でバビロンを裁くとは如何なものでしょうか。

バビロンの行為は歴史的には世界征服であってそれ自体は悪であります。エレミヤの視点は、悪を用いて悪を裁くとでも申しましょうか、神がそれを利用してユダを裁くというものです。故にバビロンの罪は罪として神は裁かれるのだという理解にエレミヤは立っているのでしょう。

人は苦しの渦中にあるとき、神の救いと敵の裁きを願うものです。しかし信仰者は、全てにおいて神の御心を読み取って行かねばなりません。

エレミヤの預言は、南ユダが危機迫る時、単純にバビロンは敵で、敵の災いを取り払うよう神に願うのではなく、このような事態に陥った自らの罪を振り返るよう要求しています。

教団の「戦責告白」は単に国家権力のを批判するのではなく「見張りの使命」を怠った自らを反省しています。敵味方を二元化するのは簡単です。苦難の中にあって、苦難をもたらす敵を避難する事に留まらず、そこに神の御心を読み取って、常に神の救済の器として用いて頂いている信仰から物事を見つめて行かねばなりません。

現在、沖縄で起こっている問題もただ国家権力を避難してすむことではありません。公民権運動は即ち黒人の解放運動でしたが、それはが黒人が白人に勝利する運動ではないことを「公民権」という言葉が言い表しています。即ちそれは白人と黒人が対等な友になる事を目指した運動でした。

信仰者が平和を目指し運動に参加する時、この点を決して忘れてはならないのです。

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