予備の油( マタイ25.1-13)

物語は、祝宴会場(花嫁の家)で10人の乙女がともし火を灯して花婿を出迎えます。しかし花婿の到着が予定より遅れ、ともし火は消えかかります。さて出迎えた乙女の内5人は賢く予備の油を持っていましたが、5人は愚かでその用意がありませんでした。

最初期のキリスト教会最大の神学的課題はキリスト再臨の遅延です福音書記者たちはそれぞれにこの問題について回答していますが、マタイはこの物語を通して、それは「思いがけない時」であって、故に油断せず備えるように命じました。現代を生きる私たちは、最初期のキリスト者程には差し迫った終末を生きていません。しかし神の計画は常に思いがけない時のものとして備えるのが信仰的にとって大切です。

さて遅延と言えば、立ち退き問題が遅れています。しかしこれを遅延と見るのは人間側の物差しによるものであって、神のご計画は人間にとって常に思いがけない時であります。物語ではその為に賢い乙女は予備の油を用意しました。この予備の油とは何でしょうか?それはその時代や教会の置かれている状況によって様々でしょう。では川崎戸手教会に集う者にとっての予備の油とは?それは信仰の自立であると私は思います。

関田牧師の開拓伝道で始まった戸手の宣教は教会史的にたとえれば幼児期を終えようする頃ではないでしょうか。それは良きも悪くも使徒パウロという創始者の影響下にあった異邦人教会に似ています。そこには人格的・場所的に依存度の高い共同体であり、パウロがいなくなれば、又ユダヤ人が入ってきたら等、ちょっとした変化で右往左往してしまいます。それぞれの拠り所を失った時、そこで問われるのが信仰であります。

もしかしたら、それは既に予期した故の関田牧師の遺言であったのかもしれません。「聖書による独立・神と人への奉仕」これこそが思いがけない時に動じない、私共川崎戸手教会に集う者の予備の油であると思います。

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