理解する

友人ビルダドはヨブに語りかけた。


「いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。まず理解せよ、それから話し合おうではないか。」
(ヨブ記18.2)


 ここでビルダドが「まず理解せよ」と言うとき、彼自身は中立的な立場から語っている(つもりである)。異論反論を語る前に、まず相手の主張を理解するのが話し合いの前提である。しかしビルダド自身は中立のつもりでも彼はヨブに対し「我々の言っていることをまず理解せよ」と一方的に要求している。もしビルダドが中立から話し合いの前提として「まず理解せよ」というのであれば、彼自身もヨブの主張をまず理解しなければならないはずである。
 話し合いは理解する努力を要求する。しかし我々はその努力を相手側に強く求めても自らの努力は不足しがちではないだろうか。話し合いが結論を性急に求めるあまり理解する努力に欠けてしまう。平たく言い換えれば、人の話を聞かずに自分の主張だけに終止する
 既にここまでヨブ記を読んできた我々は薄々気づき始めているのであるが、ヨブと友人らの議論は空中戦であって、互いに今ひとつ何か大切の要素を欠いたところで議論が空回りしている。
「まず理解せよ。それから話し合おうではないか。」これは正論である。しかしそれは自分自身に求めなければならない。さもなければ「こちらの土俵に上がってきなさい。さもなければ話にならない」と言っているに過ぎないからである。
 話し合いにとって理解は重要である。しかしその理解とは相手の主張そのものではなく相手それ自体なのかも知れない。彼が生きた歴史と生きる現実。その理解が彼の主張の意味するところを明らかにしていくのだと思う。だとすれば話し合いの前提である理解とは簡単ではない。言語が通じるからと言って必ずしも話し合えるものではない。対話を重んじる我々はそのことを十分にわきまえて話し合いに望みましょう。

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