同性愛

先週の婦人会主催の学習会で多くの学びを与えられました。発題をして下さったお二人に心から感謝申し上げます。

身体と心と性的指向の三つの要素に分けた説明は大変良く分かりました。

性同一障害とは、「心」と「身体」との関係性であり、同性愛とは「心」と「性的指向」の関係性という整理の仕方であると分かりました。したがって身体が女性で性的指向が男性である場合、表面的には何の問題もないように見えますが、心が男性的である場合、同性愛に分類される事は新たな気付きでした。

さて、先週の学習会を終えて染み染みと感じたのは、この分類とか男性的とか女性的とか更には同性愛という言葉自体も含めて、これらは共通理解を得るための仮の言語に過ぎないと思いました。即ち、マイノリティーがマジョリティーに声を発する時、それは不本意ながらもマジョリティーの言語を用いなければならないというジレンマです。

私は性別、結婚、出産というカテゴリーを連続的に考える事が問題の中心ではないかと感じました。即ち、女は男と結婚して子どもを生むという「当然」の連続性の中で理解している所が問題だと感じたのです。全て男や女である前に、個の人間から出発してみてはどうでしょうか?性的指向を例に取れば、男性が好きか、女性が好きか、男性よりか、女性よりか、中間か、ではなくて、その人が好きなのではないでしょうか。その人に性的な感情を抱いたのではないでしょうか。私はいわゆる異性愛者と定義されてる者ですが、だからといって全ての女性に性的感情を抱くわけではありません。女に対して、男に対してではなく、それ以前にその人に対して、と捉えれば良いのではないでしょうか。それが性別、結婚、出産という当然の連続性によって(本来あるべきでない)同性愛なる社会問題が創りだされていると感じました。性的指向をグラデーションで表現したのも、それはマジョリティーの異性愛という当然の土俵に乗った言語表出なのであって、究極的には個人なのであって、その個人が結果的に一般社会で如何に分類されているかというだけの話ではないかと思いました。

マイノリティーは、その共同体を豊かにしてくれます。その事実をまた一つ確認させていただいた学習会でした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です