マルコ8.22-9.1
イエスは何者か?それは神の子メシアである。福音書記者はそれを理解して欲しいと願いつつも、その結論部分だけを知ることを拒否しているようだ。
ベトサイダで一人の盲人がイエスに癒やされた。彼の視力は徐々に回復しやがて何でもハッキリ見えるようになった。彼がそこでハッキリ見たものは何であったのか。それはその道程を経ることなくして見ることの出来ない天からのしるしである。
この一連の物語(マルコ8.11-30)は見えるものに見えず、見えないものが(見えないが故に)見えた事を通じて、私たち読者が理解していない事に気づく事を期待している。すなわち盲人がそこでハッキリと見たもの(しるし)は私たちが理解していると思っている限り(見えている限り)、見ることの出来ないものであることを知って欲しいと願っている。
しかしそれを知ることに何の意味があるのか。正解を知ることと、間違っていることに気づくことは似て非なるものである。イエスは知って欲しいと願う故に先ず無理解の自覚を迫っている。もしかしたら人間とはその無理解の自覚に至る所までしか出来ない存在であり、善悪の知識の木の実を食べることの許されない人間の限界がそこにある事を先ずハッキリと知る事を経なければならないのかも知れない。
盲人は自分が見えないことを知っている故にハッキリと見えるものとなった。彼はそこで何を見たのか。是非私もそれを見たい。そのためには先ず経なければならない道程があるというお話がつづくのである。
孫 裕久