憐れみ深い神

マルコ10:46-52

彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。(10:48)

聖書において「憐れむ」という言葉は重要な位置をしめている。イエスは病める人を深く憐れみ癒やしの奇跡をおこなう。旧約においても神は「憐れみ深い神」(申命記4:31)であり、詩篇においては神の憐れみを乞う詩が多数紹介されている。

聖書の神は憐れみの神である。それは神の性格ではなく性質を指している。家内安全、商売繁盛の神があるように、聖書の神は憐れみの神であり憐れむ神である。それは善や正しさが救済の根拠ではないという意味である。即ちそれが正しいからではなく、全く一方的な憐れみ、そこに救済の根拠がある。更に言えば、たとえ律法違反になろうとも神の憐れみはそれに勝る。

憐れみとは人の苦しみや悲しみに深く同情することである。憐れみの神は先ず被造物の苦しみ悲しみに同情される神であり、それ故救いの手を差し出してくださる方である。故に私たちはバルティマイのようになりふり構わず神の憐れみを乞うて良いのである。

バルティマイは「すっかり見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」とある。イエスに従ったとは、これからは自らが隣人を憐れむ人となったという意味に他ならない。同時にその道とは、確かに十字架へと向かっている。

神の深い憐れみによって生かされていること、それを根拠として隣人を自分のように愛して参りましょう。

神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。(ローマ書9.24)

孫 裕久

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