一欠片の勇気

マルコ福音書15:40-47

女たちはイエスの最期を見届けアリマタヤのヨセフはイエスの遺体を引き取り墓に納めた。男の弟子たちがみな逃げ去り、家族が遺体を引き取れなかった事実に照らして、それらは勇気ある行動であった。勇気とは能力でも技術でもない。恐怖に抗う一欠片の抵抗である。

信仰と希望と愛。これらはキリスト者の実存を構成する三大要素である。キリスト者は信じること、復活の希望を持つこと、そして隣人を愛することを持って主に従う。しかし信仰と希望と愛は一欠片の勇気なくして実を結ぶことはない。

時にキリスト者は「不信仰な私をお許し下さい」という祈りに逃げ込む。しかしそれは信仰の問題ではないのだ。私たちはそれなりに信仰を持っており、それなりに希望を抱いており、それなりに隣人を愛している。しかしそれらがそれなりにも実を結ぶには一欠片の勇気が必要であり、この勇気に関して言えば、私自身が頑張って振り絞らねばならないものなのだ。神に委ねて良い。大いに委ねよ、しかしその神の御旨に飛び込むのは私であり私が勇気を振り絞って先ず飛び込まねば何も始まらず、信仰も希望も愛も文字や言葉のままに過ぎないのである。

<映画 ドライビング miss デイジーより>

南部は明るい可能性を秘めています。それにもかかわらず、人種差別が社会的に教育的にまた経済的に南部の発展を遅らせています。

南部にも善意にあふれた白人が大勢います。ただ彼らの声は聞こえず彼らの主義主張は示されず勇気ある行動は起こっていません。そういう人々に我々は訴えます。勇気を持って考えを声にして他の人々を導いてください。社会が激動している今この時、歴史に残る最大の悲劇は、悪しき人々の過激な言葉や暴力ではなく、善良な人々の沈黙と無関心な態度です。我々の世代が後世に恥ずべきことは、暗闇の子の言動ではなく、光の子が抱く恐怖と無関心さなのです。

(M.L.キング)

孫 裕久

1件のコメント

  1. 神様は私たちに成功することを望んではいない
    挑戦することを望んでいる・・・
    (マザーテレサ)

    ペテロは三度イエスを知らないと言った。
    私たちは三度どころか百万回イエスを知らないと言うだろう。
    しかし、それでも百一万回目に知っていると言うチャンスが残っている。

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