お手本

聖書の中で収穫は貧しい人々と分かち合って祝うように命じられている(申命記26:10-11)。これはかつて神がエジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出し乳と蜜の流れる土地を与えてくださった救済の歴史と関係している。即ち虐げと貧しさから救われた者であるが故にこの収穫は貧しきものを虐げず、かえってそれを分かち合うこともって収穫の感謝のしるとしとしたのである。

K.バルトは『福音と律法』において出エジプトがモーセの十戒に先行する点に着眼している。即ち福音と律法は、律法遵守によって与えられる恩恵としての福音ではなく、福音は無条件に与えられ、その感謝の応答として律法を位置づけている。このバルトのねらいは現代の律法主義を克服することに目的が設定されており「救いは戒めを必要条件にはしていない」という所に力点が置かれており、それ以上のものではない。

私は旧新約聖書を通じて神の救済手法にはある共通点があるように思う。それは神が人を救済する時その救済は戒めのお手本になっている点である。主イエスが弟子の足を洗ったように、十字架を担われたように。神が貧しい者に収穫を与えた救いは、汝もこのように貧しき者の空腹を満たせとするお手本ではないだろうか。

福音と律法は救いがあって戒めがあるという時系列に並べるものではなく、福音が律法であり救いが戒めではないだろうか。救われたから感謝の応答として戒めを守りましょうではなく、その救いそのものがお手本としての神の戒めなのである。故に主イエスが「私があなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いないさ」と説かれたように、神から与えられた恵み(収穫)は、あなたも隣人に同じようにしなさいという神の戒めなのだ。

現代のキリスト教会は律法ではなく救いを強調する。言い換えれば救い(救われている)を強調するあまり律法が後退している。我らは主の律法(ヨハネ福音書13:34)を生きるキリスト者である。救いを得るために律法を守るのではない。また律法は福音に対する感謝の応答でもない。救いそのものが律法であり、福音が律法のお手本を示しているのである。故に福音を信ずる我らは主の律法を守るのである。イエスラエルの民がその収穫をレビ人・寄留者と共に分かち合ったように。

孫 裕久

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