キリストに結ばれて

コリントⅡ 12:11-21

新共同訳聖書の小見出しに「パウロの心遣い」と記されている。確かに心遣いと読めない訳ではない。

「あなたがたが他の教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけでだけではないでしょうか。この不当な点をどうか許してほしい。」(12.13)

この一文で言わんとしていることは
①    エフェソなど貧しい教会がパウロの宣教を経済的に支援したの対して、豊かなコリント教会はパウロを支援しなかった客観的事実。
②    パウロ自身がコリント教会に負担をかけまいとしたことはパウロの誇り。
③    他の諸教会はパウロを支援して、コリント教会はしなかった点が、コリント教会が他の諸教会に劣るところであって、それは私(パウロ)の責任であると謝罪している。

これは最早、コリント教会を責めないという心遣いではなく、殆ど嫌味である。表面的には自分が悪いのだと謝りつつ、実は自分の正当性とコリント教会の落ち度を明らかにしている。このような物言いが、パウロが人から嫌われる要因であったと思われる。(しかし振り返ると人はこういう嫌味な謝り方を結構している。)
こんなパウロを見ると私は自分の父を思い出す。父は友もなく家族・親族一同から嫌われていた。唯一キリストと結ばれている事だけが父の居場所であった。朝夕聖書を読み、一日最低7回祈り、何があろうと礼拝を休まず、誰よりも献金を多く捧げ、その熱心さの上で私は父に勝るキリスト者を知らない。友無き嫌われ者の父はそれ故にキリストとの結びつきを誰よりも拠り所としていたように思う。
パウロの使徒職が問題視されたのは、彼の性格がマイナスに働いていたことも要因の一つであったと思う。しかし例え嫌われようとも、否嫌われているが故にパウロはキリストとの結びつきに救いを得ていたのではなかろうか。「キリストに結ばれて語っています」(12.19)
人間関係は健やかなことに越したことはない。しかし好かれる人になることが福音の目指すところではない。パウロが伝えるキリストの福音は私たちがキリストに結びつくことを求めている。主イエスは嫌われ者(罪人)の友となり共に生きた。私たちはそこでキリストに結ばれよう。

孫 裕久

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