御心に適う者

マタイ 3:13-17

そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(3.17)

この言葉を神から賜ったのは後にも先にも主イエスただお一人である。この神からの言葉は預言者の伝統に照らすなら神からの召命である。しかしこれはそれ以前の預言者とは本質的に違う。召命は、神が預言者に語るべき言葉を授け、預言者はその言葉、即ち御心を民に語る。これに対し主イエスの場合その存在が、神の心に適う者として全肯定されその生涯が神の御心なのだ。故に主イエスを見たものは神を見たのであり、神を見たとはそこに神のみ心を示されたということである。
今少ししつこく言えば、神は人を用いて人間を救いへと導いた。しかし主イエスにおいては、神はイエスを用いたのではなく神ご自身が人と成られた。人を用いるのではなく、自ら人としてその御心を示された。その痛みや苦しみ、誘惑や恐怖、そういうものを、私たち人間と同じ用に味わいながらその生き様を通して、否その生き様が、神が私たち人間に示された御心なのだ。
福音書はパウロのように御心を解釈し説明しない。主イエスの歩みそのものが神の御心なのだ。キリスト者は御心を知りそれを生きようとする。しかし福音書は主イエスの生を示しその後を歩むよう要求する。私たちはその歩みの中で御心を知るのである。

孫 裕久

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