信じる力

マタイ福音書9:18-31

登場する三つの治癒物語には共通点があります。それは癒やされたい側のイエスを信じる強い思いです。彼らはイエスであれば癒やしてもらえると一途に信じました。ここにはその信仰の質ではなく、ただ信じる一途な姿勢が描かれています。
もしかしたら信仰には質や程度というものがあるのかも知れません。キリスト者は聖書を読み、その教えを生きる中で様々な経験を重ねその信仰は鍛えられていきます。しかしその信仰の質や程度によって救いが左右されるならそれは律法主義と何ら変わりません。
信じるとはその信仰のそれと関係なく、むしろ幼子が幼子のまま無条件に母を信じる一途さであってイエスによる癒やしはそれによって導き出されたのでした。
教会にとってこの信じるという部分が極めて大切なのです。もし先々を計算できる範囲でしか歩まないならば、そこに描かれる円は真に小さなものでしょう。
教会がその一歩を踏み出そうとする時、「そこは信じるしかない」という祈りの部分を確保したいものです。何の心配もいらない、ほぼ計算し尽くされた道に祈りは不要です。何の努力もしないで、ただ祈ってどうなるというものではないですが、「そこは信じるしかない」「そこは祈るしかない」という部分があるなら、その教会が描く円は少しは大きくなると思います。
復活のイエスとの出会いには驚きがあり、恐怖を乗り越えていかねばなりません。そこには信じる力で乗り越えて参りましょう。

孫 裕久

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