大切なもの

ヨハネ福音書12:1-8

イスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人に施さなかったのか」(12:4-5)

マリアの行為は明らかに無駄使いです。そんな無駄使いをするくらいならもっと有効な使い道があるでしょう、というのがユダの主張です。しかしイエスはマリアの行為を自分の葬りの備えとして受け止め肯定しました。
ここに、一つの行為に対する全く正反対の受け止め方があります。これはどちらが正しいのかという問題ではありません。私はユダの主張も最もだと思います。ただ、イエスとユダとでは生きている時が違うので大切さの物差しが異なるのです。
イエスは十字架を目前とする終末の時を生きています。終末を生きる人の大切さはその他大勢からの批判を受けます。それは99匹より1匹を重んじたり、1日中働いた人と夕方から働いた人を同じ扱いにしたり、多数の側から見るとそれらは理不尽とさえ思えるのです。しかし今日という一日、今という一瞬を逃さない終末を生きる者の大切さは、時を見定めるのです。即ち古今東西変わらない大切なものではなく、今そこで大切なものを選び取るのです。
私たちは、使徒言行録の終末を生きるキリスト者とは大きく隔たる時代状況を生きています。しかし彼ら程ではないまでも、やはりキリスト者として終末を生きる緊張感を持ち続けたいと思います。何が大切なのか?それは「今がどういう時であるのか」そこに応えていける大切さを選び取って参りましょう。

孫 裕久

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