神の願いと人間の応答

先週、逗子教会に於いて神奈川神学研究会が開催され参加しました。鎌倉雪ノ下教会の小宮一文先生より「グスタフ・アウレンによる贖罪論の類型について」と題するご発題を頂き有意義な学びを与えられました。

内容について詳しく解説出来る能力は私にはありませんが、感じた事としてアウレンは贖罪論には種々あって、どれも律法主義に回帰する危険性をはらんでいると警鈴を鳴らしているのだと感じました。

律法主義は人間側の努力により義とされる故、その救済の有効性が人間側の努力で左右されてしまいます。これに対し贖罪論は神の側からの一方的な恵みであります。アウレンは贖罪論を3つに類型化しそれぞれの落とし穴(律法主義に回帰する)を神学的に解説しています。即ち神の恵みの贖罪は人間側の努力によって有効無効になるものではなく、もしそこに落ちいったら、キリスト教はその本質を失うのでよくよく注意されたしという事でしょう。

アウレンは類型化した内の一つで主観型贖罪論を最も低く評価しています。彼によれば主観型とは「キリストは人間の中の応答愛を引き起こす偉大な教師であり模範であって、人間側の愛こそ和解と赦しの基礎になっている」。故にその応答如何によって贖罪の有効性が左右されると指摘しています。(私の理解では、いわゆる社会派の福音理解を指摘しているのだと思います)

確かにアウレンのその指摘(落とし穴)の可能性は否定できません。しかし放蕩息子の譬え話にあやかれば、父は息子の反省の弁を聞く以前に走りより抱きしめ祝福しました。ここに無条件の贖罪が現れています。しかし息子が我に立ち返って父の下に帰ってくる事(応答)なしには、父も息子を無条件に赦しようがないのです。

アウレンの「贖罪論が律法主義に回帰してはならない」とする狙いは十分に了解しながらも、しかしあまりにそこに集中するあまり、彼は人間が神に応答する部分と人間の努力という部分をいささか雑に扱ってしまっているように感じました。

神の恵みの贖罪は、パウロによれば「信じて義とされる」に尽きます。しかし神は人間に(人間側の、そして息子の反省の内実は問わないけれども)確かに立ち帰ってくる事(応答)を願い且つ要求しています。昨今のヨハネ福音書の学びに照らせば、光の下に来ることを神は願っているのです。

それでもアウレンの指摘を真摯に受け止めるならば、自分を光の下に居ると自負し、闇に居るものを裁くならば、それこそ神への応答は救いを勝ち得る努力に変質し恵の贖罪は律法主義に陥ることでしょう。そこに注意を払うならばアウレンの神学的労苦「贖罪論の類型」も報われるというものです。

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