すべての人の僕になりなさい

受験や出世等、他人と競う人間にとって「すべての人の僕になりなさい」という聖書の御言葉は私たちにどうあることを要求しているのでしょうか?先週の信徒説教からあらためてその御言葉と向き合わされました。

競い合うことはある意味大切であります。しかし私たちは何を目的に誰と競い合っているのでしょうか。使徒パウロは次のように言っています。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。」(テモテⅡ4.7-8)

パウロはひたすらキリストの僕として走り続けました。しかしキリストの僕であるということは、キリストがすべての人の僕であられたように、私たちもそれに習うことであります。僕とは主人に尽くす存在です。しかし隣人に尽くす時、競争社会にどっぷり浸かっている私たち人間は、指導するという方法や目線で向き合い、またそういう自分に対する他人からの評価を求めてしまうものです。

既に、こうしてうんちくを語る事自体がそうであり、そこから完全に自由になることは不可能です。如何にして、すべての人の僕になる道が開かれるのでしょうか?それはパウロが言うように義の栄冠を求める他ないのでしょう。誰かに評価されたいとする承認欲求は、唯一、神の評価に集中する他ありません。これは決して救いを得るための必要条件ではありません。人間の弱さ限界です。神への応答である愛の業に励む時、ただ神のみに知られ、神のみが与える栄冠を欲しましょう。それ故にキリスト者は競い合うのです。誰と?それは己自身であります。他人に勝り、勝るが故に隣人を助け指導し裁くのではありません。やはり人間である以上欲するものがあって、それを欲するが故に他人と競い合い合うのではなく、他人に勝り上位でありたいと欲する己自身と競い合い、それに勝利したい。そしてその道を開いてくれたのが他ならぬ十字架であり、その十字架が私をすべての人の僕になりなさいと要求しているのです。

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