個人の取り分

 株価が下落するのも店頭からトイレットペーパーがなくなるのも同じ原理かも知れません。それが事実であれ、デマであれ不思議と買い占めが始まります。如何なる力学が集団をそのように動かすのでしょうか。
会社はトップダウンで目的と意志が統一された社会集団です。しかし(民主)国家は会社の構成要員として社員がいるようにではなく、独立した意志を持った個人が集まって出来た一つ社会集団として存在します。即ち会社なくして社員は存在し得ませんが、国家がなくても個人は存在するのです。その独立した個人による社会集団が決してトップダウンではない他の力学によってみな我先とトイレットペーパーを買い求めたのです
この度「緊急事態宣言」を可能にする法案が成立しました。共産党はこの法案に対して「外出自粛要請」や「学校・社会福祉施設・興行場等に使用等の制限・停止の要請・指示」などができ、個人の権利制限を行えることだと指摘しています。
しかし一方で政府は買い占めさせないためにマスクの転売を禁止しました。言い方を変えれば国は転売する個人の権利を奪ったのです。(転売は必ずしも違法ではありません)しかし多くの国民はこのマスク転売禁止を歓迎しています。
まとまりのない事を言っているようですが、申し上げたいことは、国民は国家が個人の権利を制限することに抵抗しながら、個人が我先と買い占めすることで結果的に国家に個人の権利を制限させるという矛盾を生じさせています。私の取り分を確保するために他人の購入量を制限させたいという我がままというべきか、ここに民主主義の矛盾と限界が表出しています。
ようするに私たちは私たち個人が構成している社会集団を信じられないのです。信じられないから「もしかしたらみんな・・・と思っているのではないだろうか?」という疑いが生じ、それが事実であれ、デマであれ株価は下落し店頭からトイレットペーパーがなくなります。かかる事態において個人の権利を多少犠牲にしても私に代わり国家権力によって疑いを取締り私の権利(取り分)を確保したいとする真に自己中心的な欲求が生じます。即ち我々は政府を批判していますがその政府を動かしているのは良くも悪くも我々自身なのです。民主政治は政治の失敗を他人のせいにはできません。
民主主義の屋台骨は個人です。一人ひとりが個人の権利(取り分)を大切にしなければ、制度的には民主主義でもその実態は強者が独占する専制国家に変わりありません。究極的に民主主義とは制度的に個人の取り分を確保するのではなく、一人ひとりが主体的に個人の取り分を大切にするとき完成され、店頭から突如トイレットペーパーが無くなるという事態が解消されるのです。
恐らくイエスは個人の取り分を大切にする先駆けとして十字架に架かったといえます。即ち、振り向いたら誰もいなかった。みんな自分のトイレットペーパーを買いに行ってしまったという始末です。

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