多忙な宣教

マルコ3:13-19

イエスは弟子群の中から特別に12人を任命し使徒と名付けた。使徒とは「遣わしたものの正式な代理であり、委任された事柄を忠実に実行する限りに置いて、遣わしたものと同様なものとみなされる役職」である。

宣教とは教えを広める活動であり、我々はその教えを広める働き手が与えられることに何ら疑問を持たない。しかしマルコ福音書をここまで読みすすめて明らかなのは、宣教は教えを広める故の当然ではない必然があることを認める。

イエスは多忙であった(1.33、2.2、2.13、3.7)。それは次節(3.20)にあるように、食事する暇もないほどであった。何がそれほど忙しかったのか。ここまでイエスの教えは一言も紹介されていない。イエスの教えは言葉が事実となる。イエスの宣教は群衆一人ひとりと向き合い、病を癒やし、悪霊を追い出し、罪人を招くものであった。故に多忙であった。

宣教とは多忙なのだ。人間をとる漁師(1.17)とは、魚を網で漁(すなど)るようには効率的ではない。

事実の解説(言葉にする)は机と向き合うことには時間を要するがさほど多忙ではない。しかし言葉が事実となるイエスの新しい教えは一人ひとりと向き合い、その一人ひとりが抱える重荷を共に担う故にすこぶる多忙なのである。ようするに不効率なのだ。この問題を解消する必然として働き手が必要となった。

河川敷での宣教は多忙であった。就職差別問題、太平洋戦争犠牲者の訴訟問題、立ち退き問題、水害、高齢者サロン、朝鮮学校補助金問題等、この河川敷に教会が存在する事自体が、出会いを余儀なくし言葉が事実となる宣教に関わらざるを得ない必然から働き手が必要となった。真にこのヨルダン寮は多くの働き手を必要としてくれた。

しかしこれから向かう街区の新会堂おいてその必然はそれほど自明ではない。新会堂が着々と建築される様子を日々目の当たりにしながら私は焦りを覚える。宣教しなければならないと。子ども食堂、バザー、クリスマス会、映画会、伝道集会、何から始めようと焦るのだ。しかしそのような焦りは言葉が事実となる新しい教えに逆行する。イエスは一人ひとりと向き合った。大切なのは出会いを見落とさず一人ひとりと向き合っていくことである。

李有彩姉が幼い金光燮くんを連れてこひつじ保育園を訪ねた。関田牧師はこの出会いを見落とさずこの家族と向き合われた。河川敷の宣教がそこから始まった事を我々は憶えている。

この道を歩んでまいりましょう。さすれば自ずと忙しくなることでしょう。宣教とは多忙であり、多忙故に働き手が必要になっていくのです。

孫 裕久

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です