マルコ6:1-6a
イエスは故郷のナザレで歓迎されなかった。幼少からのイエスを知る故郷の人々は肩書のないイエスに躓き、その教えや奇跡の事実を直視出来なかった。イエスはそのナザレでわずかな病人しか癒やされなかった。マルコはこれを人々の不信仰と結んでいる。
救いはその信仰と関係している。即ちナザレで癒やされた人々がわずかであったのは、イエスが躓く故郷の人々に対して消極的になったからではなく、信仰のある人がわずかであったという事であり、言い換えるならわずかながら信仰のある人がいたと捉えるべきである。
最終的にイエスがもたらす救いは和解である。この救いに両者の肩書や関係性が割り込んで邪魔をする。ナザレの人々にとってイエスは所詮大工の息子である。しかし信仰のあるものはこれを乗り越えていく。大工の息子であろうが何であろうが切羽詰まり救われたい一心でイエスに臨んでいく。それが信仰である。言い換えるならそれ程までに救われたいとする何かを持っていない事、それが不信仰の正体である。不信仰は肩書に囚われる。
確かに我々はあの長血を患った女性ほどに切羽詰まった救いを求めているとは言い難い。彼女から見て我々は既に満たされている。しかし本当にそうだろうか。我々が満たされているというのは堤防で保護された安全地帯に生きているだけの事ではないだろうか。
「聖書による独立、神と人への奉仕」とは謙虚に且つ偉そうに奉仕する教会ですと言っているのではない。関田牧師がはじめて金萬守兄をお訪ねし「かまわないでくれ」の壁を突きつけられそれでも諦めなかったものは何であったろうか。関田寛雄という人は「在日」との和解なしに戦後を生きることは出来なかった。彼は切羽詰まる程に救いを求めていた。そしてその救いはその壁を超えた所にあった。その救われたい切実な思いが「聖書による独立、神と人への奉仕」というこの一句に込められていると私は思う。
隣人との和解に救いを求めるなら、我々は未だ満たされてはいない筈である。これより「私は不信仰者です」等と謙遜するのはやめよう。それは私は求めるべき救いがありませんというようなものだ。
聖書によって独立し、神と人に奉仕する教会として、キリスト者として歩んでまいりましょう。それは使命ではない。私自身が救われたいから。それを心から欲するからであります。
孫 裕久