苦難と慰めによる一致

コリントの信徒への手紙2 1:1~11

神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。(1.4)

新しい年を迎え、使徒パウロによるコリントの信徒への手紙2を読みすすめたいと思う。

パウロは冒頭で自身とコリントの信徒が、苦難と慰めによってひとつであることを述べこれに感謝している。それはイエス・キリストによって神が人々の苦しみを慰めて下さった事実に基づいている。パウロの信じる神は慰めの神であり、慰めの神は苦しむものに慰めを持って関わる神である。この事実が自身とコリントの信徒の関係を形作っているとの理解が冒頭(1.4)の言葉である。

即ち慰めの神による共同体(教会)は苦難と慰めによって一致する。利害や信条による一致は互いの利益や政治によってバランスが図られその均衡が保たれている限りの一致である。しかし苦難と慰めによる一致は「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ(コリントⅠ 12.23)」がごとく、他者の苦難(苦しみ)と慰め(喜び)を自らの慰めと苦難とする故、限りのない希望がある。(1.6-7)

教会は信仰告白共同体であることは言うまでもない。しかし川崎戸手教会が戦責告白の実質化を宣教方針とするように、その信仰告白も実質化(出来事)されて意味を獲得する。教会の信仰告白は隣人の苦難に寄り添い慰めとなって実質化する。即ち人と人が共に生きる共同性が生まれる。そしてその共同性(苦難と慰めによる)は利害と信条の隔たりを超えていく。故に希望があって揺るぎないのだ。

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