愛ゆえに苦しむ者

コリントⅡ 11.16-33

話の噛み合わない土俵に立つ必要はない。「肉に従って誇る(自分自身について誇る)」ことは愚かである。しかしパウロは敢えて愚か者となり「肉に従って誇る」この土俵に立って反論するのである
パウロは、偽使徒たちが血筋や民族を誇ることに対し、それらは誇るに値するものではないが「わたしもそうです」(11.22)と確認した上で、偽使徒に大いに勝る誇りを語る。それらは投獄され鞭打たれ死にかけた経験(11.23-28)であって、キリストの故に労苦した数々であった。
パウロはその数々の経験と、第1の手紙で述べた「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要である」と重ね合わせて、「弱さを誇る」(11.30)という言葉が導き出した。
即ち、血筋や民族そして律法ではなく、仲間の弱さ(労苦)が連帯を生み一致へと導くことを誇るのである。
しかし勘違いしてならないのは、やはりキリスト者は自身について誇るべきものは何一つ無い。ただパウロは敢えて相手の「誇る」という土俵に立ち「誇る必要があるなら」(11.30)、弱さを誇ろうと言っているに過ぎない。
我々に誇るべきものなどなにもない。誇るべきものを得るために生きているのでもない。ただキリストを愛する(言い換えるなら隣人を愛する)が故にキリスト者は苦しむ。右の頬を打たれて左の頬を差し出すように。せめて終わりの日にこの苦しみの数々を神様に誇りましょう。パウロの言った「誇る者は主を誇れ」(10.11)に一言付け加えるなら、誇る者は(終わりの日)それを主に誇れば良い。主を誇り、主に誇れる生涯を歩みたいものである。

孫 裕久

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