主の祈り

マタイ6:7-15

神仏への祈願は崇高な存在に願いたてまつり、その結果を待ち望むしかない。それに対して主の祈りは、そこに祈る者と神との関係が示され、その祈りはその関係、自らの責任と生き方を再確認させる
主イエスは祈りにおいて神を「お父さん」と呼びかけた。それは天高く遠い存在ではなく、他人では決して許されない親子であるが故に許される身近な関係としてのお父さんである。
祈りはそのお父さんを信頼しており、日毎の糧を分かち合うこと、兄弟互いに許し合うこと、自分に耐えられない試練の免除を願っている。
主イエスによって、神は身近な存在となった。しかし身近になった故にその関係が問われるのである。主の祈りは、それを祈る者に日々その関係を問う。
初詣の祈願が成就せず失望したり怒りを覚えたりする人がどれだけいるだろうか。アフリカ等の饑餓問題、ロシアによるウクライナ侵攻、大きな課題ではあるが、やはり距離的に遠い。遠い故に声を大にして叫ぶ割には自分自身の問題としての自覚は薄い。土手下朝鮮といわれた河川敷の街の近隣住民にとって、それはあまりに近い。近い故に沈黙する。その近さが口にする一言に責任を問うからである。
神をお父さんと呼びかけ祈る時、そこには近さがある。近い故に初詣のそれとは違う特別な感情がそこに生まれる。また「赦して下さい」と祈る時「赦しましたように」の責任が問われるのだ。主イエスが神を「お父さん」と呼びかけた近さとは、そういうことなのだ。日々、主の祈りを祈る度、天のお父さんとの関係を確認し、お父さんに対して負うべき責任を自覚し、お父さんに守られ生かされていることを感謝いたしましょう。

孫 裕久

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