痛みに触れる

マタイ8:1-17

重い皮膚病を患った人はイエスに懇願した。「主よ、あなたが望めば、わたしを清くすることができます。」するとイエスは手を差し伸べてその人に触れ「わたしは望む。清くなれ」と言われた。ここに山上の説教が言わんとする隣人愛が表れている。
重い皮膚病を患う人の望みは癒やされることであり、同時にそれを実現するのは神の意志であると彼は信じている。その望みと信仰が「あなたが望めば」という一句に込められている。これに対してイエスは「わたしは望む」と返した。イエスは懇願する人の望みを自分の望みとした。これこそが隣人を自分のように愛するということなのだ。
更にイエスは彼に触れた。イエス・キリストの神は人間に触れる神なのだ。しかも律法で禁ずる汚れに触れていく神である。「わたしは望む」という意志。そしてその意志は律法に拘束されない自由によって汚れに触れた。ここに愛がある。
関田牧師はヨルダン寮の経験から、共に生きるとは共に泥を被ることであると説かれた。河川敷住民は土手下朝鮮という蔑視に晒され台風による水害で泥まみれであった。「戦責告白の実質化」を翻訳するならそれは隣人愛である。川崎戸手伝道所は隣人を自分のように愛する為に、彼らに触れる為に堤防を越えて行った。そして共に泥を被ったのである。
教会が主イエスに従うとき、この隣人愛を決して忘れてはならない。何故なら教会は隣人愛という岩の上に建てられたからである。

孫 裕久

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