主の弟子として

マタイ8:18-27

イエスは律法に反して重い皮膚病の患者に触れ病を癒やされた。交際を許されていない異邦人も癒やされた。それが誰であれ主に救いを求めてくる者をイエスは招いた。それがイエスの隣人愛である。そして今やその隣人愛は向こう岸にある未知へと向かおうとしている。求めて来る者に留まらず向こう岸へ渡り自ら律法を超えた関係に臨まれようとしている。
このイエスの後に従うには覚悟と犠牲を伴う。言い換えるなら、隣人を自分のように愛するには覚悟と犠牲が伴うのだ。それは主イエスご自身が覚悟し犠牲を払って隣人を自分のように愛されたからである。
覚悟とは、前途多難を了解する。隣人を自分のように愛しするとは狭き門を通る厳し道である。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない。」律法学者のは興味と関心をもって先生であるイエスに従おうとした。しかしイエスは覚悟なき彼を拒否された。
犠牲とは、自分の優先順位ではなく隣人の優先順位を自分のそれとすることである。それが隣人を自分のように愛する事であり、これも狭き門である。父の葬儀を済ませてからと願う弟子にイエスは主に従うことを優先させ彼に犠牲を払わせた。
何故狭き門を通るのか。その先に真の命があると信じるからである

孫 裕久

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