罪人を招く神(1)

マタイ福音書9:9-13

キリスト教の教義でその主要な位置を占めているのが罪の赦しです。神の子が犠牲の小羊となって人間の罪を贖って下さいました。これは神の恵みであって例えるなら借金を無条件で帳消しにして下さったようなものです。ただこの教義(贖罪論)は如何ともし難い欠陥を含んでおり福音書記者もパウロもその解決策に苦労しています。その欠陥とは、では未来の罪はどうするかというものです。この問いの前に立った瞬間、キリスト教会はイエス・キリスト以前に逆戻りしてしまいました。
イエス・キリストによって人間の過去の罪は贖われました。では今後犯すであろう罪についてもそれは有効なのか?という問題です。パウロは「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきであろうか。決してそうではない。」(ロマ6.1)と否定しています。福音書も姦通の罪を犯した女に対して「これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8.11)と命じています。結局、キリスト教の贖罪論は過去の罪は赦されたけど未来に対しては罪を犯すことを禁じているのです。キリスト教会は原初の時からこの矛盾を抱えました。そして罪の赦し(恵み)を全面に押し出す一方で、未来の罪を上手に禁じる(律法)という難問を背負ったのです。例えば教会内で律法に拘束されない信者の淫らな行為を禁じながら、罪の赦しを説いたのです。現代の教会も同じで、「罪は赦された」と言っても「今後、罪を犯しても全て赦されます」とは言いません。
そもそもこの議論は無意味なのです。無意味の中に埋没し無意味の中に意味を見出そうとするから訳のわからない言葉や無駄で無意味な教義が、ほころびた継ぎ接ぎを更に上から継ぎ接ぐように次から次へと生まれまれたのです。
キリスト教会は何処で間違ったのか?言い方を変えるなら、どこでイエスを見失ったのか?これはそういう問題なのです。
(つづく)

孫 裕久

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