罪人を招く神 (2)

マタイ福音書9:9-13

新約聖書の中で常に論争になっているのは律法の問題です。律法は善と悪、隣人と敵、善人と罪人、この両者を分離します。これを図形的に表現すれば律法は円を描いており、円の中に善と隣人と善人、円の外に悪と敵と罪人がいます。
イエスは罪人を招くために来たと言われますがこれは常識的には理解し難いものです。何故なら本来律法を守る正しい者が神に招かれるからです。故に円の外に放置された罪人は悔い改め祭祀に認められて再び円の中に迎えられ救われるのです。
しかし現代は故なき差別で罪人とされた人々の解放する方向へと教会は向かっています。かつて教会の中に障害者差別や部落差別、民族差別があり、未だ克服できないでいる性差別があります。このような差別の問題と向き合いながら教会の円は大きく成長していきました。しかし今尚円の外に放置された人々がいます。これは教会が円の中に身をおいている限り永遠に克服されるものではありません
ではイエスはどうであったのか。彼は円の外に出ていった人でした。円の中から迎え入れるのではなく、自ら線を超えて罪人の側に接近していったのです。「わたしは、罪人を招くために来た」という言葉は、円の中ではなく、円の外で発せられた言葉なのです。同じ言葉でもどこでそれが発せられているかでその意味は全く違ってきます。
円の中から、自分は安全地帯に身を置きながら手を差し伸べるのか。外に放置された人のそばに行って一緒に飯を食うのか。ここに本物と偽善の違いがあるのだと思います。
常識的には理解し難いイエスの「罪人を招く」というこの言葉を本当に理解したいなら、教会も円の外に出なければなりません。そこで聞いて初めてその意味が明らかになるのでしょう。

孫裕久

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