一緒に食べる

五千人の共食の物語は僅かな食料で大勢が満たされた奇跡物語です。しかし弟子たちが群衆を解散させることを提案(マタイ14:15)したのに対して、イエスはその場で群衆と一緒に食べることを選んだという切り口からの解釈も可能ではないでしょうか。
イエスの宣教の重要な要素に、罪人の隣人になること、病める者・貧しき者を救済することの二点が挙げられますが、これに一緒に食べる事を加えたいと思います。
一人でも食べることはできますが、そこに一緒に食べるというのは何か特別な可能性が秘められているように思うのです。
パウロはガラテヤ書(2:11-14)で、異邦人とユダヤ人が一緒に食事をするかしないかという日常的な問題について論じています。最初期のキリスト教会は誰と一緒に飯を食うかという問題に突き当たりました。実は今日、私たちも一緒に食事する相手を選んでいます。職場の同僚を選ぶことは出来ませんが、昼休み時間一緒に食べる相手を私たちは自由に選んでいるのです。一緒に食べるというのはとても大切なことで、そこで私たちは無意識の内に壁を設けてしまっています。
この一緒に食べる時間と空間は、キリスト教会にとって重要な宣教の一要素ではないかと思うのです。弟子たちが群衆の胃袋を心配して早めに解散させ各自で食事させる提案に対し、イエスは見ず知らずの者同士一緒に食べることを勧めました。この「一緒に」から奇跡が起こったのです。
礼拝後、愛餐会を持つときがありますが、この愛餐は宣教の大切な業です。昼休みのランチタイムとは異なり、自分が選んだ訳ではない姉妹兄弟と一緒に食べる所に、神の不思議な恵みと導きがあることを信じて愛餐の時を大切にして参りましょう。

孫 裕久

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です