震災2年目を前にして
明日で、東日本大震災発生から2年を迎えます。福島第一原発の廃炉処理、避難民、除染、がれき処理、街の復興、どれもこれも未解決の現実問題です。二年も前に起こったことですが、未だにその被害の渦中を生きる人々が残されています。そ…
続きを読む →明日で、東日本大震災発生から2年を迎えます。福島第一原発の廃炉処理、避難民、除染、がれき処理、街の復興、どれもこれも未解決の現実問題です。二年も前に起こったことですが、未だにその被害の渦中を生きる人々が残されています。そ…
続きを読む →2/25 東京地裁で北村慈郎牧師の戒規免職処分取り消しを求める裁判の判決が下されました。「原告の請求を棄却」 この判決は教団の下した戒規免職を妥当であるとするものではありません。大ざっぱに言えば、原告側は教団の教義と切り…
続きを読む →(4) 言葉との出会い 敗戦を迎えた時、父は栄養失調で倒れ、片肺はほとんど機能せず、病床に臥していた。父の教会には友人牧師が交代で説教に来ていたが、私は礼拝出席を拒否していた。 戦争中の信徒の言動を見てきた「牧師の息子…
続きを読む →(3)敗戦後の模索 8月15日、敗戦。「軍国少年」は一挙に虚脱に陥った。 何も手につかない。学校へ復帰したものの当分は西宮市の焼跡整理である。 何体もの焼死体を掘り出した。 その頃から「真相はこうだ」というラジオ番組が始…
続きを読む →桜本教会での大韓川崎教会との交わりは私にとって第二次大戦中の日本基督教団の罪責とその責任の自覚へと深く導かれた経験であった。 しかし実はそれは「教会の悔改め」であるのみならず、私自身の「悔い改め」と深く結びついたものであ…
続きを読む →桜本から戸手に移り住んで気付いたことは、「土手下」と言われる戸手四丁目河川敷に多数の在日コリアンの人が集中して住んでいることであった。桜本での在日コリアンとの交わりは私の桜本伝道にとってはとても大きな要素であったし、そこ…
続きを読む →1965年頃のある冬の日、妻の政枝が所用で桜本伝道所の近くに出掛けた時、3才位の女児を連れ、背中に生後一年未満の赤ん坊を背負った若い母親が道端に佇ずんでいるのを見かけた。 小一時間程しての帰路、まだその母子が寒風の吹きつ…
続きを読む →長男の喘息を癒すため少し環境の良い所に移りたいという希望を持った時、最も力強く相談に乗ってくれたのは繆とよ姉であった。 「顔の広い」とよ姉は親しい大工さんを紹介して下さり、二人で現地を見に来た。経済的にもあまり余裕のない…
続きを読む →とよ姉はどのような経験でキリスト教に導かれたのか、これもとよ姉から聞いた断片的な物語から辿って見よう。 戦後の復興期まではこの中華料理店の経営も仲々難しかったようである。 川崎区の宮前小学校の裏門近くの『国興楼』という名…
続きを読む →繆とよ姉のこと<1> 前号で言及した、私たちの家族が戸手に移動するに当って、「ある方の紹介で」と書いたのは繆とよ姉のことである。 戸手教会の前史にとって彼女の存在は欠かせないものである。繆(旧姓小宮)とよ姉について、彼…
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