30年史のために(12) 開拓伝道基盤としての「戦責告白」[1] 関田寛雄

 (4) 言葉との出会い

敗戦を迎えた時、父は栄養失調で倒れ、片肺はほとんど機能せず、病床に臥していた。父の教会には友人牧師が交代で説教に来ていたが、私は礼拝出席を拒否していた。
戦争中の信徒の言動を見てきた「牧師の息子」としては、キリスト教ブームに上乗りする形で教会に復帰してくる信徒や新来者の顔を見るのも嫌だったからである。教会と牧師館の中にわが身の置き場がなかった私は、それでもある友人のすすめで遠くの教会に出席して見た。それはホーリネス系の教会であり
1942年の弾圧をくぐり抜けて来た牧師の説教には、その話法への違和感を超えて「確かさ」が満ち溢れていた。
その説教の内容はともかく「聖書に聞こう」との訴えは私の心に響くものがあり、帰宅して初めて病床の父に「聖書のどの言葉を読めばいいのか」と問いかけたのである。
私が父に聖書について説明を求めたのはこれが最初であった。
父は床の上に起き上がって詩篇第51編(ダビデの悔改めの歌とされる)をダビデの罪の物語と共に語ってくれたのである。
聖書の言葉のもつリアリティに触れたのもこれが最初であった。
特に「ああ神よ、わがために清き心をつくり、我がうち衷に直き霊を新たに起したまえ」と「神の求めたまふ供物は砕けたる魂なり。神よ、汝は砕けたる悔いし心を軽ろしめたまふまじ」の節は私の心を砕き、私は初めて罪の自覚と共に神の慈しみに涙したのであった。

あの戦争の最中に私が叫んだ虚妄の言葉の償いは、神の憐れみの言葉に砕かれずしては始まらないのである。

今一つ、私には忘れられない言葉との出合いがある。
中学の英語の教師で矢内正一先生がいた。戦後再開された授業で英語の教科書もなく、先生がカーライルやミルトンの文章を黒板に書いて訳読をつけられるのであるが、その後半は著者の人物評になる。失明の危険を冒してミルトンは清教徒革命のため、クロムウェルに協力しつつ民衆への訴えの文を書きつづけた。
失明後にして『失楽園』を著したなどの話は、戦後の行き方を模索している生徒の心を捉えた。私はあの戦後の「痛み」なき転心、変身の不条理を手紙にして先生に問いかけた。「先生は、今なお、何を信じて生きておられるのですか」と。
いつもはすぐに返事をくださる先生から、数週間も返事がなかった。
失望していた私に、英語のクラスで先生は語られた。「このクラスの某君からかくかくしかじかの手紙をもらったが、今なお私は、この手紙に返事が書けないでいる。私自身、日本の勝利を信じ諸君にも励ましの言葉を語ってきた。思いがけない敗戦で私自身が今、生き方の模索の最中にあるからだ。しかし少しく長く生きた者として言えることがあるとすれば、次のことだ。

イエスの言葉に『隠されているもので顕われないものはない。真実はやがて現われるべく、今は隠されている』というのがある。
やがて顕われる真実を待ち望んで、今は勉強を続けようではないか」と。
この言葉との出合いによって、やっと私は私の戦後を行き始める決意が生まれたのであった。それは反戦平和を生きることを内容とするものとなった。」(以上で引用は終り)。

1件のコメント

  1. 高麗博物館の会報で先生の名前を知り、このサイトを見ることになりました。戦中、戦後の父子の心の動き、英語の先生の真実の言葉、私にもずしん、と来ました。私は日本同盟基督教団中原キリスト教会(在・調布市)の信徒伝道師をしています。牧師は山口希生先生と言います。お会いできる機会を期待しています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です