「I want to」(1)

私は「したい(I want to)」ではなく「ねばならない(I have to)」という思考に支配されて来ました。
その原因は、聖書に代表される「永遠の命を得るには、どんな良いことをすれば良いか」(マタイ19.16)という問いに応えるある種のキリスト教的思考によるものなのか、又は在日として血と骨に染み付いた同化的思考によるものなのか、やはりアボジに強いられた生い立ちによるものなのか、それとも社会という檻に囚われた人間誰しもが荷なわされた世間的というものによるのか、何れにしろよくよく考えて見ると私にはそもそも「したい」が自分に無いことをこの歳になってはじめて知りました。
勿論、私は人間として自分の欲求を満たす「したい」が当然あり、そして満たしてきました。しかし人生とは何であり、それを如何に生きるかという土俵の話で「したい」を満たそうとすることは神に背を向ける身勝手であり、キリスト者にとってその正解は聖書より導き出され、それに応答することが人間の「ねばならない」となって、以上の同化、隷属、世間的等をも同時に克服解決し得るものだと考えてきました。
それはもう随分昔から何となく、何故私はこうなんだろうとモヤモヤしながら何かが決定的に欠けていると感じつつも、ある種の恐れがその答えへ通じる道を閉ざしていました。しかし今私は「したい」こそが(結果的にやっている事は変わらなかったとしても)、これまで超えるに超えられなかった壁を一つ越えられそうな強い気配を感じています。
外側からの要請ではなく、自分が自分に課す「ねばならない」は「したい」という独立した意思に限りなく近いといえます。しかしその「ねばならない」は、自分自身に留まらず他者にも同じものを要求する宿命にあり、更に自分自身に課した「ねばならない」を現実的に成し得ないにも拘らず、他者へのそれは厳しく裁き、その裁きによって自分の未完成を棚上げするというこの世に全く不要且つ有害な罪を生産してしまうのです。                                              (つづく)

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