信じて生きる

マルコ福音書16:9-20

キリスト者にとって「信じる」とは最重要級の言葉である。しかしそれは自明とまでは言い難い。マルコによればキリスト者とはガリラヤで待つ復活のイエスを訪ね求めることであり、イエスの教えに換言すれば「隣人を自分のように愛する」という一句に帰する。そこには驚きがあり同時に「驚くべきことではない」との声を聞く。これは新しい命を生きる力であって必ずしも信じるという類のものではなかった。

しかしイエスの十字架・復活と同時代を生きたキリスト者がみな世を去るにつれて「驚き」は後退し、むしろ(理性では信じがたい)復活は、如何にして「信じられる」か、という次元で捉えざるを得なくなった。それは出エジプトという事件は何であるか?それは出エジプトした世代と荒野で生まれた世代とエルサレム帰還後に生まれた世代とで異なるのと同じである。

マルコ15章9節以下が書き足された理由は、その不自然な終わり方を補ったものとされているが、執筆の背景としては復活を「信じなかった」(16:11,13)者たちがいたと考えられる。そして最早復活のイエスはガリラヤで待たず自ら信じない者たちの前に訪れ「信じる・信じない」という彼らの土俵に立って「信じる」者となるよう働きかける。そして信じる者は悪霊を追い出し「新しい言葉」を語るとされる(16:17)。新しい言葉とは即ちイエスの新しい教え(1.27)を指している。その言葉は事実となる。

16:9以下は復活という伝承(言葉)の前でつまずいている者たちを信じさせ、言葉ではなく再び事実の中へ(驚きの中へ)立ち返るように呼びかけているのではないか。まさに宗教改革者による原点回帰のそれと同じである。

最早「信じる」とは単独で存在し得ない言葉である。マルコ16:9以下が言わんとする「信じる」とは生きるという事実と直結している。ただ机上完結するものではない。信じるは生きるであり、換言すればそのように生きる根拠として信じるがある。私たちが動かぬ壁をそれでも押し続けている(立ち尽くしている)根拠は、復活を信じているからなのだ。

(完)

孫 裕久

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