30年史のために(6) 繆とよ姉のこと[2] 関田寛雄

とよ姉はどのような経験でキリスト教に導かれたのか、これもとよ姉から聞いた断片的な物語から辿って見よう。

戦後の復興期まではこの中華料理店の経営も仲々難しかったようである。
川崎区の宮前小学校の裏門近くの『国興楼』という名の店であったが、初期は人手もなく、結核を患ったとよ姉は、身体を休める事もできず、マスクをしながら出前にかけずり廻ったという。

ある日、母親らしい人と幼い女児を連れた二人連れが、店に来た。
その母子が食事をする前に手を合わせて祈る姿を見て、とよ姉はショックを受けた。一体この母子はどういう人なのかを知りたい、と思ったとよ姉は食事の終わったこの母子の帰路の後をつけて行ったのというのである。これが当時川崎境町教会会員の眞保八重子姉との出合いであった。

眞保姉はつれあいの保郎氏と共に戦後、岡山から川崎に移って来たのだが、日本鋼管の溶鉱炉に使う、耐熱煉瓦の工場を桜本二丁目で経営していた。眞保姉の紹介でとよ姉は境町教会に出席し始めたものの、店のやりくりの忙しさの
中で仲々朝の礼拝には出席しにくかったようである。そしてその頃、桜本一丁目の町内会館で日曜日夜の浅野先生の集会がはじまり、日曜日の夜ともなれば客も少なく、とよ姉はしばしばこちらの集会に眞保姉と共に出席し始めるようになった。以来この二人は無二の親友となったのである。

とよ姉は1965年頃のクリスマスに受洗されたと記憶しているが、信仰生活は見る見る深められて行った。早天祈祷会には開店前で時間がとり易く、休んだ事はなかったし、しばしば電話で聖書についての質問をして来るようになった。つまり時間を見ては自分で聖書を通読して、不明の個所の質問をしてくるという具合である。
店の方もとても繁盛していた。私が説教などで八木重吉の話をすればすぐに詩集を入手して実によく読み、暗記してしまう。
ハンセン病の駿河療養所の井深八重さんの事を知っては、店の休日に訪問していた。また死刑囚で獄中でキリスト教信仰に生きるようになった人々との文通も続けていた。その人の刑執行後発行された詩集を愛読していたし、三浦綾子や遠藤周作の小説なども愛読していた。

店には段々と川崎市教育委員会関係の先生方が集まり、色々な宴会の場として使い始めるようになった。宴会の場には八木重吉の詩画集のコピーが飾られたり、クリスマスの頃には「きよしこの夜」などの讃美歌を大きく書いて壁に掲げ、宴会のシメに先生方に歌わせるなど、仲々のアイデアを使ってもてなしていた。市の職員組合の委員長であり、後に川崎市長になった伊藤三郎氏なども、こういうとよ姉のスタイルにすっかり魅せられたのであった。「サブチャン」「ママさん」と呼び合う二人の友情は伊藤市長が亡くなるまで続いていた。

こうしてとよ姉は市内に五軒の『国興楼』支店を設け、夫、文燿兄の息子たちのそれぞれに店を持たせたのであった。

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