人々の心に
例えば、生徒たちが学級会で遠足の行き先を話し合い、多数決で決めようとしていたとしましょう。それは単に行き先を決めるだけでなく、民主的な作業とルールを学ぶ場でもあります。ところが、ある強面の生徒が「面倒だから今日は俺が決め…
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続きを読む →激しい雨の帰り道、川崎駅に到着した。さて家に戻っても、今日は誰もいない。妻は韓国に帰省中。次女は就職してひとり暮らし。長女は仕事帰りに映画鑑賞。考えているうちに、立ち飲み屋ののれんをくぐっていた。 その店の女将は、なぜか…
続きを読む →今月は妻と陶芸教室に参加しました。日暮里駅を降りて、昭和の香り漂う谷中銀座を抜けた先に、陶芸教室Cactus(カクタス)はあります。 62歳、人生初の轆轤(ろくろ)体験でした。30分程講習を受け、意気揚々と挑んだものの、…
続きを読む →映画『教皇選挙』の中で、ローレンス枢機卿は語りました。 「私が怖れるのは『確信』である。確信は寛容の敵だ。確信をもち、疑念を失った信仰は、意味がない。」 この言葉は、確信と疑念が必ずしも対立するものではなく、信仰において…
続きを読む →つまり真の敵とは、いったい誰なのか。神に背を向けること、イエスから逃げること、和解を拒み、謝ることも、赦すこともできないこと。このような姿勢を私たちは他人の中に見いだしがちですが、実のところ、それは自分自身の中にあります…
続きを読む →先日、電車で青年が老人に席を譲る光景を見た。老人は「次の駅で降りるので」と遠慮したが、青年は「どうぞ」と何度も勧めた。このやりとりが四度も繰り返され、ようやく老人は席に座った。これを見て、私は「譲る難しさ」もあれば「譲ら…
続きを読む →受難節は、広い意味で「イエス・キリストの十字架によって私たちの罪が贖われた」ことを思い起こす時です。しかし、「罪が贖われた」とは、単なる免罪ではなく、赦された者が向き合うべき課題が伴います。罪の背後には、それによって傷つ…
続きを読む →受難節は、主イエスが十字架にかかるまでの苦しみと犠牲を思い起こす期間です。しかし、それは単に主の苦難を振り返るだけではありません。主がその苦しみの中でどのように生き、どのような選択をされたのかに目を向ける機会でもあります…
続きを読む →受難節(レント)の期間、キリスト者は「何かを断つ」という伝統的な習慣があります。食事や娯楽を控える人もいれば、悪しき習慣を見直す人もいるでしょう。しかし、そもそもその目的は何でしょうか? 人は日々、さまざまなものに依存し…
続きを読む →言葉は人を喜ばせたり力を与えたりもしますが、軽はずみな発言が相手の心に痛みを与えることもあります。人は言葉によって関係を築きますが、同時に言葉は刃にもなり得ます。 「沈黙の誓い」とは、修道士や信仰者が一定期間、または生涯…
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