受難

マルコ10:32-34

「もしあなたを傷つけたとしたら申し訳ありません。」これは謝罪の常套文句であるが、傷つけられた方としては真に残念な言葉である。求めている本質は理解であって謝罪はその理解の延長にある必然に過ぎない。

私たちは受難週に主のご受難を特別におぼえる。イエスの受けた苦しみの本質は何処にあるのか?受難予告と弟子の無理解が並行しているのは、受難そのものが理解されていない所にイエスの苦しみの本質があるという事なのか。その苦しみ悲しみを理解してもらえない(最早言葉化出来ない)苦しみ悲しみというものがある。

河川敷に今もお住まいのHさんは93歳になる。最近彼女はよく「孫さんには分からないだろうけどね」と話を結ぶ。正直心地よくない。愚痴を聞かされたあげく最後は「孫さんには・・・」で結ばれる。そこに顔を覗かせる心地悪さは何処から来るのか。私は分かっているつもりでいるのか。そこに「分からないだろうけどね」がグサリと突き刺さる。私にはより深い所にある本質を理解する、否理解しょうとする努力に欠けているのか。

理解とは頭脳の問題ではなく、いうなれば同じ船に乗船するようなものかも知れない。彼女は私にこうも言う「立派な教会出来て良かったね。」「毎朝、ヨルダンの前まで行って手を合わせているんだよ。」どういう訳かこの言葉も何故か面白くない。私は何か分かっていない。

Hさんの言葉に心穏やかでない自分と、エルサレムに向かって先頭を進むイエスに驚き恐れる弟子たちとが何故か重なる(マルコ10.32)。私は最早、彼女と同じ土俵に立っていない。既に新会堂は建築されヨルダン寮はいつ取り壊されても礼拝を守る上では支障はない。しかし土手に生きる人々の次のステージはまだ白紙状態である。イエスに従う者たちは従ってはいるが目指しているものは違う。それが無理解であって先頭を進むイエスの態度にその無理解は驚きや恐れとして表出している。表面的に時と空間を等しくしていても、本質的に同じ地平に立っていない。それが無理解であり、「分からないだろう」とされる正体なのか。

頭の中で主のご受難をおぼえることなど出来ない。主のご受難に無理解でありながら復活などありえないと思うのだが・・・・・、情けないがそれでも私は彼女を訪ねない訳にはいかないのである。唯それだけは理解している。復活の希望を信じて。

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